漢字が読めない人物を首相に据えたのは偶然か、それとも愚民が産んだ最先端の政治のありようなのか。ここ数日、つらつら考えている。
私は、日本は文字で知識を共有してきたと信じていた。文字が書かれた紙は、人から人へと移り渡る。そのたびに情報が伝播される。そんなシステムを統治、社会的ネットワーキング、心の交流など様々に利用してきた、と。
紙を渡された者はその意図を読み取ろうと努力し、意味がわかりにくければコミュニティ内で、組織内で、あるいは仲間同士で、知恵を出し合って斟酌しようとする。政治で言えば、承服できなければ近代では質問状その他問い合わせることは可能。一方の、文字を書いた者、即ち、為政者は口頭での指示より、文書での伝令を公式として、“うまい”文書の書き方に腐心して来た。
文を作成する方も、それを受け取って読むほうも、情報について考える行為がそこには必ず伴われた。統治において、文字が果たしてきた役割は実に大きいわけだ。もちろんこれが文学であれば、情操、知識など文化面での教育効果も高い。
私は、日本でデマ情報を発端とする数万人規模でのデモが行われない理由の一つは、民衆がデマで先導されることがないからだと思っている。羊のような気質と表裏一体であるから、なんとも断言はできないが。それでも、日本が「無為の国」でいられるのは、文字を通じて情報共有するシステムが根付いているからだと、信じている。
演説は空気や気迫は伝えるが、内容については果たして聴衆に伝わったものかどうか、不安なことがある。しかも、その場に居合わせたものしか、その内容を共有できない。つまり情報共有者は限られる。つまり文書とは、情報伝播力、思考の活発化、人々の組織化と、多くの人間の力を誘発するのである。
他方、思う。文字は官僚が統治者のように君臨してこられた理由でもあるが、それは同時に彼らの能力を育ててもきたのではなかろうか。
彼らは、冗長ながら文章を書くための情報収集を行うインセンティヴがあるため、自ずと情報収集力が培われる。どんな情報があればどんな方向に政治を進められるか、考えてから情報収集を行う。都合が悪い情報が出てくれば、明確な文書にせず、玉虫に変える。読む側が根負けすることを半ば期待して、図式より言葉での記述を好む。政府系金融改革においては、句読点1個で、まるで違う意味に変身させたと、財務省の官僚の“敏腕”ぶりも耳にする。行政官が育つ土壌は受け継がれている。
さて当節は、漢字が読めない60代の首相が政治の中枢に君臨する。文藝春秋に書かれた自分名の原稿を最後まで読み終える力もない。漫画に精通するなどイメージアップの情報伝達は心がけてはいるが、「考える」ことは一朝一夕には得意にならない。逃げ口上の文言すら頭に浮かぶまい。これでは、官僚の言うがまま、政治は進むわけだ。官僚たちは内心、しめしめと思っているのではなかろうか。
ただし、国語力がない学生からは従来のような優秀なる行政官は誕生しない。まもなく、文字で国をコントロールしようなどという不逞の輩すら出てこなくなりそうだ。新しいことを興そうと思う人はテレビで吼えるばかりになったりして。首相はそんな新時代を先取りして生まれてきた新機種なのかもしれない。
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