アートの世界

2009/11/20

屏風に挑戦した入江明日香さん

ここ2年ほど、私は屏風がほしくてたまらない。我が家は狭いので屏風など必要ではないのですが、絵を見るたびに、「これを屏風にすると空間に広がりが出ていいだろうなあ」とか、逆に、「これで空間を仕切って人を寄せ付けない空間を作りたい」とか、思うことがしばしばありました。

そう思った作家の1人が、入江明日香さんでした。昨年秋、初めて見て、作品に立ち上る運気と香気、色香。なのに、決然と空気を押し返す強さがあると思ったものです。特に、悩んで描いた作品に、意表をつく面白さと可能性を感じさせる作家でした。彼女には、「悩め、悩め、大いに悩め」と、心の中でエールを送ったものです。

その入江さんが、シロタ画廊で今年も個展をしているので、昨日、行ってきました。

屏風が3点ありました。

右の屏風「白木蓮」には、中央右寄りに少女の顔が描かれている。
屏風に顔!!
なんという冒険だろう。
なんという挑戦!

屏風は空間を仕切るという機能から、人の直ぐそばに立つものです。間近に座った者と屏風の「顔」との相性が悪ければ、屏風を疎ましく思う。つまり、屏風が人を選んでしまう。それでは屏風は屏風の役割を果たせません。そのため、屏風に具体的な個性を現す人間性を持ったモチーフはリスクが高くて厳禁・・・なのではないかしら。
だからだと思うのですが、いまだかつて屏風に人の顔のアップなど見たことはありません。遠景、デフォルメされた動物がほとんどです。否、私が知らないだけで、あるのかもしれませんが。「冒険」「挑戦」といったのは、そういう意味です。

この感想を入江さんに言ったところ、この顔を描くのに非常に苦労して、最後まで決まらなかった、何度も書き直した、と語っておられました。

そうでありましょうとも。
この荒業に良くぞ挑戦した、そして、ようやった、よ~うやった。
「ありがとうございます」と、入江さんは直角に深々と私に頭を下げました。

入江さん、しかしこの大きさでは小さすぎますぞ。
あなたにはもっと大きなものが似合う。六曲の大作もいけるわね。
ああ、そう、まず第一作だから二曲半双を描いてみたのね。
誰が買うとか考えずに思いっきりやるといいですよ。
30センチの台の上に屏風を置いているけど、台がなくてこの高さになる屏風を描くといい。
だとすると、高さでいうと、あ、190センチになる?
いいんじゃない、ヨーロッパの家のドアに相当する大きさにしたらいい。彼らの鼻先に置いてやるのよ。
「はい、私は実は大作を描くのが好きなんです。でも、描く場所もあるので、そうそう大作は描きにくい・・・」
そうか、作品に会う場所を設えないといけないですね。
軽々に”感想“を言ってはいけないと、少し反省です。

入江さんの作品の基本は、流線の美しさです。
中央の屏風「貌佳花」,左下にあるアオ色と、「白木蓮」の冒険ができる度胸は入り江さんの特徴ですが、線の美しさが基本です。

体力がみなぎる20代から40代まで、体全体を使って流れる線をいっぱいいっぱい描くといい。
「ええ、線を描くときは息を止めるので、体力を使います」

実は私は、とても気になる絵があるんです。「柚香菊」です。
「えっ、実はあれは私が一番気に入っている作品なんです」
きりりと、まなじりを決した超然とした表情と、そこに惚れて花や蝶が寄ってくる(かのように、まとわりついている)テーマ性。一目見て、私は我が額に矢が刺さったかのような、気持ちの良さを感じました。額がアツーくなりました。そして、次第になんだか、京極夏彦の小説に通底する凄みが漂っているような気がしてくるのです。
そうですか、この絵が入江さんの核心なんですね。
と、私は入江さんに言いました。

不思議なことに、この絵には買い手がついていませんでした。ほかの作品はすでに売れているのに、です。

買い手がついた作品を見ると、ゆったりムードの、どちらかというと、ピーターラビット系の作品が多い。日本人のリスク回避の傾向が見えるようで、少し気分が不快になりました。
でも、ふと思いました。そうか、入江さんは、広く大衆受けする作品と、自分の真骨頂を表した作品と、冒険した意欲的な作品と、3種類を揃えているのね。マーケティング理論に合致しているではないですか。商店経営にも通じる品揃えです。

これはあくまで、私の意見だから、評論家は異論があるかもしれないな、と思いつつ、帰りかけたときのこと。
自信たっぷりな風情の“老紳士”が、入江さんに言葉をかけているのが聞こえました。
「あなたは文科省の海外研修プログラムに参加したらいい。スペインあたりがいいんじゃないかな。なんだったら、僕が推薦状を書いてあげるから連絡して」
入江さんは丁寧に“老紳士”に頭を下げて出口まで見送りました。

私は入江さんに駆け寄りました。
あの方、どなた?
「美術評論家だそうです」
スペインて、はあ?あなたの何を見てそう思うのでしょうね。
入江さん、あなたは暮らしていて心地良いところはどこ?
線を描いて手が震えないところはどこ?
あなたは何からモチーフを取る?
あなたは人の何を見て考え事をする?
みんな、日本でしょ。今いるところでしょ。
淀川より西に行ってはあきまへん。
もし東京を離れて気分転換したいと思うなら、京都の養源院になさい。
「いえ、今離れる気にはなれません。スペインに行ったらつぶれると思います」
あなたの偉いところは自分をよう知っているところだ。迷ったらいかん。あれもできるこれにも挑戦したいと外ばかり見ていると自分を殺す。あなたは感受性が強いから、今いるところで十分外の刺激を感じることができる。鈍感な人が、あんなオッちゃんの甘言に誘われて外へ行く。
ヨーロッパは、六曲の屏風を描いてぶつけに行くところだ。
あなたは自分の核心を知っている。「柚香菊」です、「柚香菊」ですよ。

*  *  *  *  *  *  

入江さんとの会話と、感想の部分が混在した文章なので読みにくかったかもしれません。でも、括弧で区切ってしまうと会話の勢いが失われてしまうようで、できるだけ使いたくなかったのです。

“老紳士”美術評論家が若かった時代は、海外に行くことはご馳走だったのでしょう。
日本は煮詰まっているところで、学べるのは新天地だ、と。でもそれは勘違いです。学ぶ、考える、創る、暮らす、は、場所を変えればよいものが手に入るのではなく、あくまで本人の問題。本人が心地良く感じられる場所を選ぶことが大事なんだと、思います。
住む場所を変えながら作品を書いている画家や小説家もたくさんいますが、皆が皆そうではないでしょう。むしろ、若い世代にはそういう暮らし方を好む人はぐっと減っています。アンテナが高い人は外へ出る必要がないのです。それが証拠に、海外研修で外地で暮らした若い作家が、その後名をあげた例はありませんもの。

入江さん、あなたが向かうべきところは、あなたの頭の中ですよ。身体の移動ではない。
私にお金があったら、「柚香菊」をほしかったなあ。でも、あなたの核心だから、買ってはいけないものだったかもしれませんね。
これでいいのです。

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2009/11/12

柄澤斎さん

昨日、アフリカ在住の方から電話がありました。

私がブログで言及した柄澤斎さんをネットで調べて、大変な版画家だと知った、と言うのです。ええ、そうなんです、と私。

柄澤さんは、今週から始まった日経新聞の夕刊の連載「無花果の森」で画を担当しています。作家の小池真理子さんが柄澤さんを離さないのです。ほかの新聞でも何度かこのコンビで仕事をされています。

知人:「思想家だね、この人は」
私   :「よく分かりましたね。哲学を版画、もしくはコラージュと言う方法で表しているのですよ。私は絵がきれいと言うより、柄澤さんの考える道筋がはっきりと見えて、それをたどるのが好きなんです」
知人:「そうだなあ、昔の画家や哲学者の頭脳の中をぐうっと潜り抜けて、追体験しているね。それから描いている」
私   :「日本人は体験体験と、現場体験ばかり主張しますが、人がたどった道を追体験できる読みこみ能力をもっと大事にせねばなりません。この能力が哲学者を生むんです」

と、会話が弾みました。

大岩オスカールも、自分を「考える人」と称していました。
私も自分を「考える人」だと思っています。

シロタ画廊でお話した柄澤さんの、静かな声とゆっくりとした視線の動かし方を、時々思い出します。

あれは、柄澤さんの「空気」でした。

以来、何度も何度も反芻する「空気」です。私からもはや不可分の資産です。我が分身、「鮫切丸」(柄澤さんの作品)は、「空気」が生んだ雫です。

それにしても、思想家の柄澤さんを1年間も独り占めする作家は、果たしてそれだけの内容ある小説を書くんでしょうねえ~。少し意地悪な気持ちで夕刊小説を読んでいます。

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2009/10/22

アート鑑賞をするようになって

アートを鑑賞したり収集したりするようになって、大きな事が変わりました。

人の気持ちがよく見えるようになったことです。気持ちの変化は、言葉だけに現れるわけではありません。顔の筋肉を何一つ動かさない人でも目の色が変わります。目の玉を動かさなくても、色が変わります。

その変化を見るために、意図的に刺激的なことを言うようになりました。言葉を口にせずあえて目に力を入れることもあります。

少し前のある日。こんなことがありました。

霞ヶ関の駅で旧知の役人とすれ違いました。数メートルの距離を置いて互いに立ち止まりました。そのまま、私は会釈の半工程だけしました。会釈はいったん首を下げてまた上げて1工程ですが、下げるだけでとどめました。にらんでいるように見えたかもしれません。あるいは慇懃な挨拶に見えたかもしれません。

「人に仕えるだけでなく、自分を社会のために役立てる人生を送ってはどうですか」と、眼差し越しにその方に言いました。その人からは「反発」「いつか撃ち落すぞ」のメッセージが発せられました。その人が仕えているボスを私が記事内で批判して以来、私に敵意をたっぷり持っているのです。

結構ですね。目で返事しておきました。

上記、「怪童鮫切丸」(自宅自室にある柄澤斎さんの作品)に、報告しました。

たぶん、私のインタビュー方法も変わってきていると思います。
インタビューを受ける方が私に何かしらの印象をもっていただければ、望外の喜びです。

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2009/05/11

ロシアのソフトパワー!

連休中、ロシアの国立トレチャコフ美術館展「忘れえぬロシア」を観てきました。(場所は渋谷のBunkamuraザ・ミュージアムです)

標題の画はイワン・クラムスコイの画です。30年以上前、銀座の画廊でこの絵を観て、大学生になったらロシア語を勉強しようと決意しました。ロシア文学のイメージのまま画の女性と自分とを重ね、「これは私だ」とまで思ったのです。今で言う「ソフトパワー」に参ったわけです。

それほどの強いインパクトを持っていた画なのに、今回観ると「ふつう」と思ってしまいました。

でも全体に人物画が写真のようで興味深かった。形のとり方がイコンのようなのもありました。日常の風景を描いたものも、ウクライナあたりの穀倉地帯を描いていて悲惨さがない。総じて明るい調子の画が選ばれていました。

この美術展を観て分かったのは、昔展覧されていた画は農奴や労働といったコンセプトで画が選ばれていて、陰惨な帝国ロシア、革命賛歌のプロパガンダが潜んでいたことです。

「ネヴァ河でのそり遊び」は当時の習俗がわかって面白いし、「眠る子どもたち」は臓器移植のために犠牲にされる現在のロシアの子どもたちを想起させ、「画家レーピンの息子、ユーリーの肖像」は我が身近な人物に瓜二つで・・・

そして、私はなんと、理想の男性を発見しました。「コンスタンチン・コンスタンチノーヴィチ大公の肖像」の、大公です!

レーピンの画でした。

かつてのロシアは軍人が最高の男性の職業であり、それは現在もイギリスやスウェーデンなど王室がある国では同じなのですが、今から120年以上も前の時代は、そのステータスの高さは比類なきものでした。

貴族でその職に就いた人は、軍事知識よりも文学、音楽、詩歌の才に恵まれそれをむしろ優先させていた感があります。姿は軍服でしたが、横顔の面持ちと指に高貴さと優美さが表されていました。

対比のためにある思い出を言います。

ある醜悪なる風体の新聞社の論説委員が、私にある詩人の詩を吟じたことがありました。それは鮨屋での出来事でした。私は、大変、シラ~っと、顔を背けて聞こえないふりをして、鮨をほおばりました。気持ちが悪かったのです。同じことを口にしても容貌がそれにマッチしているかどうかで、受け取られ方が違うものなんですね。そんな過去の一瞬の出来事が思い出されました。

同じ非民主主義国の画でも、中国に心惹かれないのは、こういう身近な人物や事象を描いた絵画がないからかもしれません。絵描きと現実の世界が隔絶している。絵描きは現実から逃避しているんじゃないかしら。それとも良いモデルになる人物がいないとか。

それにしても、今私の目の前にこの大公がおられたら、私、絶対、追いかけたな、と思います。

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2009/02/02

韓国のアートがユニバーサルな趣向に

 土曜日、銀座のシロタ画廊で、韓国のアーティスト、劉守鐘(Yoo Soo Jong)の展示会を見てきた。

想像に反して、そこには政治的なメッセージや、日本への恨みというような暗さがなく、どこの国でも通じるセンスある作品だった。経済成長とともに、アーティストも「自国の文化」にこだわらず、自分がよいと思う作風を築き上げるようになるようだ。

 日本間においてもよさそうな絵だった。草地と空のコントラストをはっきりさせ、月と白鷺草が描かれている。草の合間には天道虫が隠れていて、それが色のアクセントになっている。おとぎ話の、ウサギとお月様を思い出させるモチーフだ。

 以前、60、70歳代と思しき日本人女性画家の展覧会を某画廊で見たとき、私は辟易した。反核、反戦争、反公権力とやらの思想をキャンパスいっぱいに塗りたくっていて、眼が痛くなった。高齢化すると眼が悪くなるためにこんな色彩にしたのかと、疑ったくらいだ。思想信条を熱っぽく語るアーティストの説明が私の気持ちに追い討ちをかけた。まるで「力」を感じなかった。あれらは暮らしの中におく美術なんかではない。画廊で展示会をしてもらう意味がない。発信するばかりで内省することがないアーティストには、なんら魅力も可能性も感じないものだ。

 暮らすということと、政治思想を持つということの区別がつかない世代がいるのだ。これはその画家だけの特徴ではなく、世代的特徴だ。人種による違いよりも、経済状態、教育、職業による差異のほうが大きく人を形作る。

 さて、シロタ画廊では4週連続で毎週一人のアーティストの作品を展示するのだが、出し元であるソウルの最大手画廊、珍画廊の女主人、珍さんは日本語教育を受けているため話もすべらか。

「韓国の女の人は、200万円する絵を、ぱっと一目見て買っていくよ。あなたもね、それくらい決断しないと」

 そんな、とんでもない、といって、辞退した。韓国通貨のウォンが日本円の半分以下になったのだから、お買い得ではあるが、月に行くほど遠い話しだった。

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2008/12/22

なぜ「考える人」か

私が自分で自分を「考える人」と名乗る理由は、私の前に自らをそう名乗ったアーティストがいて、彼の目線、考え方、いき方が私と似ていたから。

もしご当人がこの話を聞いてもきっと驚かれないだろうと思うので、今日はブログの表題に入れた「考える人」を少しお話したいと思う。

アーティストの名前は、大岩オスカールさん。画家だ。今年の5月ごろ、新聞のインタビューで、「絵筆をもって絵で自分の考えを表しているので『画家』と称されているが、本当は自分を考える人だと思っている」と述べていた。

人には、思想、考えがある。

それを表現するときに人によって絵画だったり、版画だったり、文字だったり、芝居だったりする。この世にそれを形として実現するには立法、司法、行政、NPOの立場をとることもできる。

大岩オスカールさんは、そうしたあらゆる方途の中から絵筆を選択して、それをもって自らの世界観、ものを見る目線を表している。そのため、彼の絵は奇妙な事物の取り合わせが多く、この人の頭の中はどうなっているのかしら、と鑑賞者は思うようだ。

彼の目に、ものを見るときに複数の物事が重層的に映る。

例えば、テーブルの上にマグカップと新聞の文字、花、風景写真があったとして、人は自然と自分に必要なものだけを選びとって目に入れているだろう。新聞を読みたいと思えば新聞だけを目に入れる。何か飲みたいと思うときにはマグカップだけを目にする。心を安らげたいと思っていると花に目がいく。遠い異空間に思いをはせたいときには風景写真に視線を落とす。そうやって取捨選択しながら毎日を過ごすのが人の暮らしというもの。

だが、考える人は、それら取り留めない異種を組み合わせる。写真にある遠い地にも情報に飢える人、飲み物を欲する人、花を愛でる人、それらを共有する人間の営みがある。そして、相互にそれらは関連して存在している。どう関連しているかと考える。すると、絵の構図が頭に浮かぶ。高層ビルのもっと高みに花の様な核爆弾が傘を開いていたり、ビルの向こうにマグカップが聳え立ったり、新聞が曲がってインフラになったり、そんな構図だ。頭に浮かんだ事物の関連性を、大岩オスカールさんは描いている。

もっとも、この解釈は私が勝手に思っただけのこと。実は違うのかもしれない。ただ、私は物事を見るときに、自分とその事物との関連、ということの前に、事物同士の関連をまず考える。そのため、こう思っているだけのことだ。

起業したころ、ある人に「私は自分を考える人だと思っている」といったことがあったのだが、そのとき大いに変な顔をされた。そうか、現代において「考える人」は通用しないのか、自分を表すときは社名、ポスト名、あるいは業種名であらねばならんのだな、と思った私は、以後、「考える人」を口にすることを止めた。世の仕組みに自分をはめる難しさを感じたが、大岩オスカールさんが同じことを言われたことに、励まされた。そうして、このブログに「考える人」の文字を入れることにしたのだった。

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2008/10/20

舟越桂さんの作品

 週末、久しぶりにアートのことを思い出す時間が持てた。仕事のための資料を手から離し、舟越桂さんの作品を思い出していた。
 舟越さんの作品は木彫りの人物像が多いのだが、版画もドローイングも手がける。有名なのは、両性具有のようなスフィンクスに関連する一群で、身体と手、頭、首が具体的に誰かをデッサンして採ったというようなものではない。舟越さんが生み出した何か、なのであった。

 私が舟越さんの作品を観たのは、まだ夏の余韻が残る東京都庭園美術館であった。薄く光がさす小部屋で観るスフィンクスの目が光を集め、放っていた。それが全身のオーラになって異常なまでの存在感があった。目の光とは、色を言うのではない、照り返しの強さと透明度を言うのかと、改めて思った。人を識別するためにパスポートに目の色を明記する国があるが、それは便宜上のものであって、人の記憶に残る目の色とは、強さと透明度をさすんじゃなかろうか。日差しが強いところでは凝視できないほどにその目に光が吸い寄せられる。暗いところではその目から光が放射され辺りを照らす。美術館となった旧朝香宮邸の粋な小部屋を巡りながら、あちらこちらから眼光の放射を浴びているようで、背筋が伸びた。

 舟越さんの作品には「手」がしばしば登場する。「言葉をつかむ手」とか、「違い手のスフィンクス」とか。人物像の手ではない、第三者の手が後ろから覗く。脇から突き出される。手が何を意味するか、考えていくとそれは「コンセプト」に突き当たる。木彫りの人物像と、何者かが対話、あるいは誘い、示唆を持ち掛けられている。それは「キミとボク」みたいな二者間のテーマではなくて、人類全てに言い当たる何か、だ。上映されていたビデオでは作者自身は始めからそれを計算していないようだ。舟越さんが、「これはなんだろう」と考えながら、自分の作品に導かれるように、思案、思索を進めている過程が目に浮かんだ。巨匠に失礼と思わぬでもないが、アートを楽しむとは、一つには、作品が生まれるまでの過程を追体験することでもあるか、な。これが「共有」ということであろうか。スフィンクスの目を見ながら、こんな目の光に魅せられた歴史が我が人生にもあった、などと、ふと内省した。

 彫刻もドローイングも版画もデッサンもこなす舟越さんは、旧来の「彫刻家」「版画家」などという型にはまった作家の類別を超えている。共通するのは専門技術が磐石であること、コンセプトに基づいていること。畏れながら、それは私と似ている。時にジャーナリスト、時にコンサルタント、時に作家、時にエッセイスト。業態で私を把握するなど無意味だ。舟越さんの作品を思い浮かべながら、旧来の型を破るエネルギーを共有できた喜びが沸いてきた。

舟越さん、お会いしたこともないのにごめんなさい。

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2008/09/19

本業で勝負するプロフェッショナル

 去る13日、14日の2日間で、小野不由美作「魔性の子」を再読した。数年前に読んで感嘆し、今回は描写に注目しつつである。ファンタジー小説なのだが、ファンタジーというには余りに迫真、近年の舞台なのだがいつの世にもありそうな設定、性別ある登場人物に性が感じられない不思議、状況描写に匂いの記述が混じる異様さ。冒頭に王維の漢詩が掛け軸のように並ぶ威厳にも圧倒されるが、イラストなく、行換えなく、画数の多い漢字が並ぶ書面に、胸が痞える。

 小野さんとは面識がない。だが、初作品から注目し、その際立った異能ぶりに感嘆し、敬服し続けている。雑文を週刊誌などで見かけることがないのもすばらしい。どこかのレストランの味を評するとか、交友関係を開陳するとかいうような私的な匂いを封殺して、一切のエネルギーを作品に投じている姿勢に、作家としての矜持を感ずる。恵まれた環境を得ている、とも言える。

 作家は作品で勝負するものだ。作者もラーメン屋だって入ることもあるだろうに、70年代の洋楽を聴いて育っただろうに。そんな身辺雑記は切り捨てている。私には後を追いたい先輩はいないが、小野さんの姿勢だけは私の手本にしている。

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2008/08/30

空間アーティストと呼びたくなる南舘麻美子さん

 家から顔が突き出た立体オブジェ。着ぐるみのように顔と胴体が覆われた人間らしい生き物。ヘアスタイルに凝った少年少女の版画。京都・養源院の襖絵のようなタッチで山河と犬とが浮かぶ版画。

7月下旬にシロタ画廊で開かれた南舘麻美子(みなみだてまみこ)さんの初の個展は、見たことのないアートだった。立体(木彫り)と平面(版画)が居並び、どれもヘアスタイルとか、山の稜線とか、表現したい事物の特徴点だけが表されている。しかも、作品群は別に視線を交わしているわけではないのだが、すべての作品が呼応し、会話し、なんらかの関係を持っている風である。描写と説明に相当する描きこみを排除していること、そして、自然と人間世界とが渾然としているところは、まるで俳句のような世界である。アーティストは一つ一つに何かを込めるというよりは、空気で記憶した何かを、空間で表している。やわらかな乳白色の空気が漂っているように感じた。

Photo_3  

 会場を回るうちに、次第に異空間が頭の中に広がってきた。とある座敷に座って庭を眺め、その向こうに広がる山を見、山を眺めたその目を家の来訪者に当て、来訪者を迎える家族の面々にも当てる。ゆったりした空気…外に向かって開かれた家屋敷の空間だ。人と自然との距離が近く、人が自然の事象物のように存在している。ここまで思って、ふと思った。山の方だって人間サマを見ているに違いない。

Photo

 果たせるかな、「雪山より覗く」という作品があった。三角お山からニョキッと顔が覗いている立体である。作者の南舘さんに説明を求めると、「山から顔が覗いているんです」とにこやかにおっしゃる。「面白いでしょ」と言いたげである。

 画廊のよいところは、作者とじかに話ができることである。しばらく南舘さんと話した。「子どものころ、武士になるのが夢だった」「外国から見た日本と、日本人が想う日本とのギャップに気付いてから、人の外見と内面とのギャップを表そうと思うようになった」「小さいころはあんなに幸せだったのにと思うと、幸せだった時を表したいと思うようになった」「日本人でよかったと思う」

 そうか、なるほど、俳句のごとく無駄を省き、訴えたいことだけを抽出したのだな。だから、山なら山の稜線だけ、ヘアスタイルなら首だけ。見る側は、単体で見るのではなく、空間で見るべし。描かれているのは空気、関係(たとえば人と世間の目との、自然と人との、動物と人と自然との関係)。客観的に関係性の把握をしているところに、知性を感じさせる。彼女は「空間アーティスト」と呼んでもいいかもしれない。

 「ところで、立体と版画を組み合わせて動画にすると面白いと思うのですが」と切り出してみた。すると意外や、「ええ、10代のときから人形アニメを作りたいと思っているんです。コンピューターでできると思うんですけど」とお返事が。やっぱりそうか。アニメではなく、立体が動くお芝居を作りたいようだ。動画だけではなくグッズや絵本などにも展開できそうなキャラクター群である。

 南舘さんの作品たちは、8月29日からホテルニューオータニで展示される。モノクロ浮世絵みたいな版画家、羽田美奈さんとのコラボレーションで、同じ部屋で2人の作品が並ぶのだという。二人とも奇妙だからなあ、並べると非常に相性がいい。日本と韓国の画廊が共同で、「家にアートを置いてみると…」というコンセプトで日中韓のアートを披露する展示会に、シロタ画廊の出展作として出るのだという。

美術館で見るアートではなく、自宅に置いて生活の一部としてアートを愛でるという試み、大いに賛同する。私自身、アートを購入するようになってからは、家に帰るのが楽しみになった。季節の変わり目に飾り換えたりもしている。アートは私の頭を異空間に持って行ってくれ、暮らしぶりを変えてくれた。ホテルの部屋を一つ一つ覗きながら、アーティストの個性を楽しんできたいと思う。

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ASIA Top Gallery Hotel Art Fair 08

http://www.hotelartfair.co.kr

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2008/08/15

アートの世界

少し前から私はアートがとても好きになりました。学校で習う美術とは違う、現代の作家が作るアートです。

それまでは「美術」と言えば学校で習う古い重厚な美術品を連想し、難解な講釈を理解しなくては美術愛好家と名乗れないような風潮で、好きになれませんでした。

ところが、ある日、ニューヨーク在住の知人が帰国して、銀座のシロタ画廊に連れて行ってくれました。版画展を開催中でした。版画家の作品を仕上げるまでの考える工程が手に取るように見え、時を忘れて見入りました。柄澤斎さんの版画でした。

作品を見ているうちに、様々な言葉が頭に浮かびました。「俺のここ一番を見てくれ」「神様は俺が守ると叫ぶ殉教者」「月が大罪を見ている」などなど。詩を編むような、アートが私から言葉を押し出すような、自転する惑星になったような、奇妙な感覚に陥りました。

ああそうだ、自分は何をするにも何を見るにも「言葉」で表す人間なのだ、私は「私の言葉」を持っているのだ、と強烈に思いました。

「アートの世界」では、私が最近観たアートを私の言葉で表現してみたいと思います。

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