舟越桂さんの作品
週末、久しぶりにアートのことを思い出す時間が持てた。仕事のための資料を手から離し、舟越桂さんの作品を思い出していた。
舟越さんの作品は木彫りの人物像が多いのだが、版画もドローイングも手がける。有名なのは、両性具有のようなスフィンクスに関連する一群で、身体と手、頭、首が具体的に誰かをデッサンして採ったというようなものではない。舟越さんが生み出した何か、なのであった。
私が舟越さんの作品を観たのは、まだ夏の余韻が残る東京都庭園美術館であった。薄く光がさす小部屋で観るスフィンクスの目が光を集め、放っていた。それが全身のオーラになって異常なまでの存在感があった。目の光とは、色を言うのではない、照り返しの強さと透明度を言うのかと、改めて思った。人を識別するためにパスポートに目の色を明記する国があるが、それは便宜上のものであって、人の記憶に残る目の色とは、強さと透明度をさすんじゃなかろうか。日差しが強いところでは凝視できないほどにその目に光が吸い寄せられる。暗いところではその目から光が放射され辺りを照らす。美術館となった旧朝香宮邸の粋な小部屋を巡りながら、あちらこちらから眼光の放射を浴びているようで、背筋が伸びた。
舟越さんの作品には「手」がしばしば登場する。「言葉をつかむ手」とか、「違い手のスフィンクス」とか。人物像の手ではない、第三者の手が後ろから覗く。脇から突き出される。手が何を意味するか、考えていくとそれは「コンセプト」に突き当たる。木彫りの人物像と、何者かが対話、あるいは誘い、示唆を持ち掛けられている。それは「キミとボク」みたいな二者間のテーマではなくて、人類全てに言い当たる何か、だ。上映されていたビデオでは作者自身は始めからそれを計算していないようだ。舟越さんが、「これはなんだろう」と考えながら、自分の作品に導かれるように、思案、思索を進めている過程が目に浮かんだ。巨匠に失礼と思わぬでもないが、アートを楽しむとは、一つには、作品が生まれるまでの過程を追体験することでもあるか、な。これが「共有」ということであろうか。スフィンクスの目を見ながら、こんな目の光に魅せられた歴史が我が人生にもあった、などと、ふと内省した。
彫刻もドローイングも版画もデッサンもこなす舟越さんは、旧来の「彫刻家」「版画家」などという型にはまった作家の類別を超えている。共通するのは専門技術が磐石であること、コンセプトに基づいていること。畏れながら、それは私と似ている。時にジャーナリスト、時にコンサルタント、時に作家、時にエッセイスト。業態で私を把握するなど無意味だ。舟越さんの作品を思い浮かべながら、旧来の型を破るエネルギーを共有できた喜びが沸いてきた。
舟越さん、お会いしたこともないのにごめんなさい。
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