« 2008年7月 | トップページ | 2008年9月 »

2008年8月

2008/08/30

空間アーティストと呼びたくなる南舘麻美子さん

 家から顔が突き出た立体オブジェ。着ぐるみのように顔と胴体が覆われた人間らしい生き物。ヘアスタイルに凝った少年少女の版画。京都・養源院の襖絵のようなタッチで山河と犬とが浮かぶ版画。

7月下旬にシロタ画廊で開かれた南舘麻美子(みなみだてまみこ)さんの初の個展は、見たことのないアートだった。立体(木彫り)と平面(版画)が居並び、どれもヘアスタイルとか、山の稜線とか、表現したい事物の特徴点だけが表されている。しかも、作品群は別に視線を交わしているわけではないのだが、すべての作品が呼応し、会話し、なんらかの関係を持っている風である。描写と説明に相当する描きこみを排除していること、そして、自然と人間世界とが渾然としているところは、まるで俳句のような世界である。アーティストは一つ一つに何かを込めるというよりは、空気で記憶した何かを、空間で表している。やわらかな乳白色の空気が漂っているように感じた。

Photo_3  

 会場を回るうちに、次第に異空間が頭の中に広がってきた。とある座敷に座って庭を眺め、その向こうに広がる山を見、山を眺めたその目を家の来訪者に当て、来訪者を迎える家族の面々にも当てる。ゆったりした空気…外に向かって開かれた家屋敷の空間だ。人と自然との距離が近く、人が自然の事象物のように存在している。ここまで思って、ふと思った。山の方だって人間サマを見ているに違いない。

Photo

 果たせるかな、「雪山より覗く」という作品があった。三角お山からニョキッと顔が覗いている立体である。作者の南舘さんに説明を求めると、「山から顔が覗いているんです」とにこやかにおっしゃる。「面白いでしょ」と言いたげである。

 画廊のよいところは、作者とじかに話ができることである。しばらく南舘さんと話した。「子どものころ、武士になるのが夢だった」「外国から見た日本と、日本人が想う日本とのギャップに気付いてから、人の外見と内面とのギャップを表そうと思うようになった」「小さいころはあんなに幸せだったのにと思うと、幸せだった時を表したいと思うようになった」「日本人でよかったと思う」

 そうか、なるほど、俳句のごとく無駄を省き、訴えたいことだけを抽出したのだな。だから、山なら山の稜線だけ、ヘアスタイルなら首だけ。見る側は、単体で見るのではなく、空間で見るべし。描かれているのは空気、関係(たとえば人と世間の目との、自然と人との、動物と人と自然との関係)。客観的に関係性の把握をしているところに、知性を感じさせる。彼女は「空間アーティスト」と呼んでもいいかもしれない。

 「ところで、立体と版画を組み合わせて動画にすると面白いと思うのですが」と切り出してみた。すると意外や、「ええ、10代のときから人形アニメを作りたいと思っているんです。コンピューターでできると思うんですけど」とお返事が。やっぱりそうか。アニメではなく、立体が動くお芝居を作りたいようだ。動画だけではなくグッズや絵本などにも展開できそうなキャラクター群である。

 南舘さんの作品たちは、8月29日からホテルニューオータニで展示される。モノクロ浮世絵みたいな版画家、羽田美奈さんとのコラボレーションで、同じ部屋で2人の作品が並ぶのだという。二人とも奇妙だからなあ、並べると非常に相性がいい。日本と韓国の画廊が共同で、「家にアートを置いてみると…」というコンセプトで日中韓のアートを披露する展示会に、シロタ画廊の出展作として出るのだという。

美術館で見るアートではなく、自宅に置いて生活の一部としてアートを愛でるという試み、大いに賛同する。私自身、アートを購入するようになってからは、家に帰るのが楽しみになった。季節の変わり目に飾り換えたりもしている。アートは私の頭を異空間に持って行ってくれ、暮らしぶりを変えてくれた。ホテルの部屋を一つ一つ覗きながら、アーティストの個性を楽しんできたいと思う。

Minamidate_51

ASIA Top Gallery Hotel Art Fair 08

http://www.hotelartfair.co.kr

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/08/28

ペシャワール会の伊藤さんの訃報:その2 タリバンを批判する

 昨日のペシャワール会の伊藤さん殺害について、まずタリバンを批判したい。武器を持たず、現地で失言放言なく、復興のために貢献してきた人を殺害したのはタリバンなのである。彼らへの批判はもっとあってよいだろう。アフガニスタン政府を力不足だとか、日本の外務省が無能だとか言うのは、批判の順番で言えば後回しでしかるべきである。

 殺害目的が不明だが、このような事件を起こすタリバン側にも痛手があったと思いたい。日本を含め国際社会の反発を招き、従来にも増して批判されるのであるから。フランスなどはタリバン制圧のために増派すると表明しているが、こうした軍事派遣する国に正当性を持たせる事由となった。「鬼は外、福は内」みたいに外国人を手当たり次第に殺めようとするタリバンは、偏狭なる心と残虐なる手法で現地社会を支配しようとしている。その意思をのさばらせてはならない。

 本件は日本では大きく取り上げられているが、現地では小さなことであり、ほかの西側先進諸国ではもっと小さく受け止められているだろう。悔しいがそれでいいようにも思う。なぜなら、ここで騒ぐことは、タリバンの“功績”を拡声器で言いふらすに近いことだからである。報道するなら、タリバンの暴力への批判に力をおいたほうがいい。

 もしかすると、ご本人は覚悟をして現地滞在しておられたのではないか。誰もやらないことにこそ意義を見出して着任するほどの人なのだ。それも、長期間かけて農業支援をするつもりだったようだ。

私自身の話で恐縮だが、家族とは何かあっても私を探さない、取引しない、それが私の本望だから、と合意してある。伊藤さんのご家族には、現地復興のため立派な仕事をしたと、胸を張ってご遺体を迎えて差し上げてほしいと思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/08/27

ペシャワール会の伊藤さんの訃報:その1 今回の事件について

 アフガニスタンのジャララバード近郊で、ペシャワール会の伊藤さんのご遺体が発見されたと、27日午後3時過ぎ(日本時間)に報道があった。残念の上にも残念な結果である。

心からご冥福をお祈りする。

 ジャララバードはアフガニスタンの中でも最悪の危険地帯のひとつだ。テロリストがパキスタンと自在に行ったりきたりする回廊にあり、私が知るNGOたちは、パキスタンに駐在員を移したり、首都カブールから動かず地方へは電話で指示を飛ばすなどしていた。よほど伊藤さんは自信があったのだろう。現地になじみ、スキルをもって現地に貢献していた人が意に反して殺害されるとは、きわめて痛々しい。また、明日はわが身かと恐怖感を持っているNGOや国連職員、コンサルタントも多い。この事件の影響は計り知れないが、世界で最も危険な地域のひとつであるアフガニスタンで仕事をしている国際支援に携わる人々は、外出をますます控えるようになり、活動が不活発になるだろう。国際支援業界全体の痛手である。

 2004年の4月にイラクで人質事件があった際、準備不足で現地入りしたことを批判したことから、私は不本意にも人質批判の急先鋒のように言われた。当時、私が指摘したのは「準備不足で現地入りは無謀」であり、「(非政府か政府側か、親米か反米かといった)思想で安全を確保できない」だ。

前者のポイントについて。準備には物理的な装備もあれば、情報や知識、心構えもある。それらを備えるのがプロフェッショナルなのである。紛争地での支援活動は、会計費目には表れないかもしれないが、目に見えないコストが確実に支援活動に負荷を与える。日ごろの活動時間を、現地の政府から綿密な情報を入手できる体制を築くために使ったり、サイトの見回りを一時的に取りやめて事業の進捗をモニターできなくなったり(事業の質が落ちる可能性あり)、そんな中でも平常心を保てるように睡眠、栄養補給をとり、冗談を言い合って良好な人間関係を保ったり。パキスタン、イランを含めて南西アジア全体が荒れているときに、自分の周辺だけ真空地帯のように安全でいられる保証などないのだから。

後者のポイントについて。現地のタリバンやアルカイーダは思想をいちいちチェックして「こいつは反米だから攻撃しないどこ」など、するとは思われない。もしそうしてもらえているなら、それはタリバンやアルカイーダと面識があるということだから、まず考えられない。強盗や金目的ならばなお一層、思想は不問だ。今回の殺害目的は不明である。

 米軍の空爆によって民間人の犠牲が出ているのは確かに、残念なことである。だが、米軍がいなかったら、この地域はタリバンの根城として確立され、世界中に麻薬がさらに流れ、パキスタンの政治を自在に操り、イラン、中東、北アフリカという武器輸出の回廊がいっそう活発化し、世界中大混乱に陥る。米軍がいればこそ、この程度で済んでいるのかもしれない。タリバンは米軍による被害を反米の名目に使っているが。

米軍も空爆ではなく、陸上部隊の投入にもっと力を入れるほうがこれからは大切かもしれない。ただ、更なる犠牲が発生する危険性をはらむだけに、米軍もISAFもそんなことはわかっているのだろうが、二の足を踏んでいる。

アフガニスタンに対しては、軍事力だけではなく、国の復興を促進する経済、政治、社会面の大規模かつ長期的な人知、予算の投入が必須である。西側先進国の知恵を受け止められる世代の育成が実りを得るまで、長期的な支援が必要なのである。そこまでの気概が、ドナーたちに問われているように思う。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/08/25

取材者の目

一人を囲んで記者がそれを取り囲む「ぶら下がり」で、質問に答えてもらいやすい記者は誰か。見知った顔に答えてくれやすいのはもちろんだが、全く同じ条件だった場合に、である。私の経験では、目の大きい人だ。「我が質問に答えて」と訴える迫力がまるで違ってくるのだ。取材記者は質問する側だから吸い取り紙のように聞き取るだけ、と思ってはいけない。取材するにも主張する「目」が必要なのである。

ところが日本人は総じて目が小さい。外国人の知人に言わせると、「どこに目があるのか見えないから、何を思っているのか感情を読み取れない」そうで、日本人の発信力不足の一因が目にあるのかも?と思った。こんな物理的な要因が、情報が取れない、ネットワーキングしにくいなど、実質的な敗北原因になるとしたら、はなはだ不本意。そんなわけがないと思う方も多いだろう。

この意味では、私は比較優位がある。幸い目が大きいからである。インタビュー中に目ン玉を動かしたり、眉毛を片側だけ上に動かしたりすると、相手は「この点にポイントがあるな」と感じ、より詳細に語ってくれる。ちなみに、私は裸眼である。

幼少時から目立たぬようにしつけられてきた日本人。メガネなどかけていたらますます目がしょぼくなる。よい成果は主張する目から。ジャーナリストがメッセージ発信するのは、媒体を通じてだけとは限らない。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/08/23

グルジア戦争

87日から始まった、グルジアとロシアの戦争に関連して、20日に急遽、駐日大使が笹川平和財団において講演会を開いた。ポイントを下記のように集約した。

     国際法を犯して主権国家グルジアの領土の保全と国境線の維持を破ったのは全くロシアであり、新しい多極化世界の最強国になろうとしている。

     民主主義と自由を信ずるNATOへの挑戦だ。われわれの軍事行動はそれに対する反応だ。

     ロシアは、NATOがどれだけ耐えられるか、テストをしている。

     ロシアはカスピ海の資源を欧州に流すグルジアの重要性をわかっている。20~30億ドルのインフラ投資をすべて破壊し、またグルジアの軍事命脈を絶とうとしている。

     2000年初めに、南オセチアの民族、オセット人の3分の2である50万人はロシアによってすでに追い出されており、本来の二つの民族はそこにいない。残った住民3万人にロシアはロシアのパスポートを発行。その"ロシア国民"を守るための進軍だと、ロシアは説明している。ロシア国民になりたいという民意自体がロシアによって仕組まれたものだ。

     グルジアは西側と東側のダムである。

     ロシアとは16年間交渉してきた。ロシアのグルジアの村落攻撃は今年3月から始まっていた。

     アブハジアにOSCEが入っているが、ロシアも同様に軍事モニターを派遣してきている。双方の軍事監視団につながりはない。

     コソボの独立は民族独自の意思を反映しているが、南オセチアはロシアの作戦によるロシア併合である。セルビアが親西側でありOSCEの軍事監視員も平和維持軍も受け入れていた。グルジアとコソボとは全く違う。

     Red CrossUNHCRも入れないため被害状況は不明だが、おそらく12万人の国内避難民と数百名の死者が出ている。

     ロシアの第58軍が、義勇軍(paramilitary)を支援する形で侵略している。

     ロシアはグルジアとの対話を一切拒否。OSCE、UN事務総長の提案を無視してきた。交渉には時間がかかるだろう。

     グルジアはNATO加盟を許されるだろう。

     ロシアの次の狙いはウクライナ。

     グルジアによるツヒンバリ攻撃が戦火を拡大したと(記者が)言うのは、後知恵で思えば、そうかもしれないが。

大使は筋の通った話をしている。国際法に照らして真偽を述べていること、民意の反映のからくりに言及していること、に正論を感じさせる。NATO諸国は動くだろう。大使は現大統領のスポークスマンをされた人だけあり、ゆるぎない声で正論を貫く。

さて、いつものことながら、日本では「解説」あって「主張」はない。ロシア関係でぬきんでて著名な某ジャーナリストは、この講演会に際しても解説者として前に出ることを望まず、一ジャーナリストの立場にあえてこだわったと聞いた。旗色鮮明にすることを望まないのは、そのほうが今後も情報を取りやすいからなのだと推察するが、この有名人が言わないとすると、誰がロシアを批判するのだろう?いつロシアを批判するのだろう?何のためにジャーナリストをしているのだろう?

取材をするに当たり、旗色鮮明にしたほうがむしろ情報をとりやすいことがある。相手の痛いことを衝く内容、誰も気がつかなかった隙間を衝く内容がそれである。すると、相手は反論せざるを得なくなり、取材者を懐に入れようかという動機に駆られる。今回の戦争での立場表明をしないのは、この場合に相当しないと判断したのだろうか。

日本の一部有識者が、グルジアの現政権がアメリカの支援を得て樹立されたとか、西側の支援を当てにして生きているとか、NGOが影にいるとか、「ロシアもグルジアもどっちもどっちだ」みたいなことを言う人までいる。だが、そういう話は庶民レベルでは面白いが外交をつかさどる立場にあるものは歯牙にもかけない話だ。出自を問わず、正当な手続きで選ばれた政府を政府と認めるのが国際社会のルールだ。こうした記事が「主張」として出てくることは、読者の目を曇らせるようで、一方怖い気がするのである。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/08/22

フォーブス日本版10月号に書きました

雑誌『フォーブス日本版』10月号(822日発売)で、建機メーカー、小松製作所が取り組む地雷除去のプロジェクトについて書きました。CSRに熱心なコマツは、「コミュニティの復活」をコンセプトに、対人地雷除去機を開発し、アンゴラの農地復活までの資金をつけてNGOに業務依頼しました。昨年10月の経団連ミッションからの動きを書きました。内容は本誌をご覧ください。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/08/20

「国際協力を仕事にした女性たち」最新号発行!

日経ウーマンネットで連載中の「国際協力を仕事にした女性たち」最新号は、中川幸子マリ特命全権大使のインタビューです。

私のひとつの専門であるDDRに関して、不易流行の判断をされた方です。

ぜひご覧ください。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/08/18

現地報道と学術論文の間

カメラなど映像と通信機器の普及により、その場にいる誰でもが、現場報道できる時代になった。報道はスピードを競うものゆえに、映像を撮る報道記者はより一層危険地帯に入らざるをえない。他方、映像ではなく文字で主張するジェーナリストは、「こんな事件がおきた」「誰がこう言った」などの事実を伝えるものと、解説と分析を行うものとにおおむね分けられる。私は後者のタイプだ。後者のジャーナリストの役目は、現実がおきてから学術論文が書かれるまでのタイムラグをつなぐことにあると私は思っている。

紛争など国際社会における重大な事実がおきて後、学術論文が生まれるまでには、少なくとも3,4年はかかる。それまでの間、ジャーナリストが、現地の紛争がどんな背景で、何が直接原因で、関係者は誰で、それに対して国際社会がいかに反応して、現地がどんな影響を受け、どんな克服努力がなされてきたか、などを分析してメディアを通じて解説するのである。学術論文はこの段階のジャーナリズムを随分と参考にするため、社会的責任は重くなる。また、ジャーナリズムでの活気が学者の知識欲をかきたて、学術論文を生むインセンティヴとなることから、ジャーナリストは健筆であらねばならぬ、と思う。

一方、思う。ジャーナリストを「人・組織のアラを探し出して騒ぎ立てる存在」とみなす学術関係者は、真のジャーナリズムの社会におけるポジションを認知していないからかもしれない。彼らが参考にする学術論文は、およそ海外発行のものであるが、その学術論文自体が一部源泉をジャーナリズムに求めていることを、学者自身が知らない。

無論、ジャーナリズムにも事実の認識不足、誤認があることは承知している。たとえば、シエラレオネの紛争を「ダイヤモンドをめぐる紛争」と報道したBBCなどの報道をそのまま鵜呑みにした学者(とは言いがたいレベルだったが)が日本で原稿執筆や講演などの出番を得ていたのには、苦笑した。ダイヤモンドの紛争ならば、分け前を巡って仲間内の争いが絶えず起こっていたはずだ。俺のが少ない、あいつのが多い、と。しかし、内戦中の13年間、組織は一応保たれ、停戦合意に応じるリーダーもいた、その命令に従う兵士たちがいた。アジアの歴史では頻繁に起きていた粛清もなかった。

悔しがるべきは、残虐な現場の報道ばかりがなされ、兵士らの声に耳を傾けなかったことによる、機会の損失である。ジャーナリストの社会的役割は、一般人、両側の兵士らの声を偏見なく聞き、社会に発することにある。それが、特に当事者である兵士らの悲痛な思いを国際社会が理解し、彼らにあっては自省する契機となる。和平交渉のテーブルに着くインセンティヴともなる。そこまでの影響力がジャーナリズムにあることを、ジャーナリスト自身が自覚していないことを、はなはだ残念にも、腹立たしくも思う。「内戦終結のために外国の軍隊の力を借りざるをえなかったことが悔しい」と唇をかんだ暫定政府の文官、元ゲリラ兵士らの無念さには、共通して、自分たちには自力で問題解決ができる力がある、というプライドがあった。もっと前にジャーナリズムの正当な機能があったなら、と痛恨の思いがした。私は人込み掻き分けてでも国際舞台に出て行かねばならぬ、と思うに至った一件であった。

私の原稿が日本語でばかり発せられ、英語で書かなかったことへの贖罪の念がある。私は社会的使命を十分果たしているか? 自問し自責の念に駆られる日々である。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/08/15

アートの世界

少し前から私はアートがとても好きになりました。学校で習う美術とは違う、現代の作家が作るアートです。

それまでは「美術」と言えば学校で習う古い重厚な美術品を連想し、難解な講釈を理解しなくては美術愛好家と名乗れないような風潮で、好きになれませんでした。

ところが、ある日、ニューヨーク在住の知人が帰国して、銀座のシロタ画廊に連れて行ってくれました。版画展を開催中でした。版画家の作品を仕上げるまでの考える工程が手に取るように見え、時を忘れて見入りました。柄澤斎さんの版画でした。

作品を見ているうちに、様々な言葉が頭に浮かびました。「俺のここ一番を見てくれ」「神様は俺が守ると叫ぶ殉教者」「月が大罪を見ている」などなど。詩を編むような、アートが私から言葉を押し出すような、自転する惑星になったような、奇妙な感覚に陥りました。

ああそうだ、自分は何をするにも何を見るにも「言葉」で表す人間なのだ、私は「私の言葉」を持っているのだ、と強烈に思いました。

「アートの世界」では、私が最近観たアートを私の言葉で表現してみたいと思います。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/08/14

一字違い

おしまい(仕舞)を習うているのと女言い

男たじろぎておずおずと

「女もするとは知らなんだ

こんな格好するのかい?」

男は両手を前に上げ

「それもあるけどこんなの多い」

両腕広げる女の元気

「正月にやるんだ?」

「会のみんなの集まりて」

「おひねり出るの?」

「否、出すの」

「それじゃ商売ならぬよな」

「商いを口に出すとは汚らわし

我心と体の美と健康を願う也」

「奥が深いね、ししまい(獅子舞)は」

「しまい(仕舞)です!!」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/08/12

正直な母

「このお出汁、

すばらしい」とて

とりかたを

客人に問われ

「いえ、大したことありませんのよ」

そう言わずぜひともぜひともと

膝にじり寄らせて追り来る客人

根負けして答ゆ

「味の素」

(・・・・チンモク)

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/08/11

社会における自分の位置を認識してこそ支援ができる

 国際支援にあこがれる人の相当数が、世の中には「人の役に立つ仕事」と「人の役に立たない仕事」の2種類があると思っている。前者は「現場に行って直接困っている人を助ける仕事」で、もちろんこのときの「現場」とは、紛争地や、貧困層が支援を待っている地域を意味する。そして、「人の役に立たない仕事」は今ご自分が就いている企業勤めの仕事を意味する。現地に行っている人間をことさらに崇拝し、現地に行かない自分を卑下する。そのキーワードは、「現場主義」だ。「現地」だけが「現場」だと思っているのである。

こんな仕事はやめて現地でこんな支援活動をやりたいと、訴える青年に会うたび、社会における自分のポジショニングを再認識してはどうかと勧めている。現在のご自分の仕事があればこそ、現地で支援活動ができる人がいるのだから。それに、大多数の国では既に結構な数の高学歴者がいて仕事を待っている。農業もITも建設も医療も。現地で必要なのは、日本の青年の知識よりも、本当は資金だったり、日本で現地の情報を広めてくれる存在だったりする。現地の知識層は、仕事がないから海外へ出稼ぎに行かざるをえないわけで、日本から資金が届けば自国にとどまっていられるかもしれないではないか、と。

社会は3次元のジグゾーパズルみたいなものだ。個々人が個性を立たせてこそ、社会を完全形に近づけることができる。サッカーと同じである。同じパーツは二つとないから、よく目を凝らせば、自分の形にあった穴、つまり自分のポジションが見えるはず。「人の役に立つ仕事」をめざして皆が同じパーツになっていたのでは競争力がない、それこそただの「パーツ」だ。社会にとっても、損失だ。自覚があれば、現在のポジションでもっと生産性を高められようものを。

 

 現地で外国人に比較優位がある活動とは、複雑な現地社会の調停、仲介だったり、紛争で一時的に人材が払底したときのつなぎ役だったり、ドナー調整だったりする。そういう役でも、日本の自分の出自との関係維持は永続的に必要だ。日本国内での知識、資金の補充、世論喚起がご自分の持続的な資源なのだから。「日本にいる自分」を肯定してこそ、現地は心ある日本人だと歓迎する。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/08/07

執筆&取材のご依頼

執筆もしくは取材のご依頼がある方は、

コメントに記入して、ご一報ください。

コメント欄に記入をしてくださった内容については、承認制をとっていますので、公開はいたしません。

あらためて、こちらから、ご連絡いたします。

| | コメント (0)

2008/08/06

紛争地の民主主義

ボスニア

山を隔てて

陣取り合戦

二人一組

兵見張る

眠気を覚ますは

議論が一番

続く続く議論は続く

ここに民主主義知らぬ兵あり

上官と

敵地に届けと

立小便

元気な音に励まされ

思い切って尋ねしや

「民主主義とは何ぞや」

上官答えて曰く、

「民主主義はお前の手の中にある」

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/08/05

紛争大流行の時代でも、第一の知識は学問の府から

 国際協力は現実の課題を解消していく仕事である。その任に当たるものは、まず実践的な知識と持続的な知識欲を持ち合わせていなくてはいけない。それは、国際開発でも紛争予防、平和構築でも同じだ。

 仕事上必要な知識と技術は、実学である。学問のいいところは、問題の核心を発見しやすくしてくれることだ。経済(マクロ経済、財政学、金融、統計学、会計など)、行政学、司法、保健、医療、通信工学あたりに、高い需要がある。多くの人はOJTで仕事に必要な知識と技術を修得して、複数の学問的背景を持つ優秀な人材に育っていくものだが、その人の根幹を成す第一の学問に来るべき学問、つまり学術機関でなければどうしても納めきれない学問が、これらなのである。知るべき領域が広く、その分野の歴史が長いため、独学がなりがたく、まとめて学んでおく必要があるからだ。独学とOJTで習得できることは、第二の学問に設定すればよい。

  ところが、いまや優秀な人材が、「紛争予防」「平和構築」を大学、大学院で学ぶ。とくに政治的な事象を追う紛争予防を海外の大学・大学院で収める若い人たちに、ずいぶんと会う。

  しかし、紛争予防を学んで、果たして、現実にどんな仕事ができるだろうか。紛争予防は、理屈ではなく何かの実践プログラムがあって成り立つ効果だ。

  紛争は現象であって、それ自体が問題というわけではない。紛争を起こした直接原因、誘因があって、その場の人間の知恵では収拾できなくなって紛争は起きる。私たち外国人の役目は、問題の核心を見出し、因果関係を解きほぐし、一つ一つ解決策を提示することなのである。それには、どうしても、学問を学問の府で修めておく必要がある。

  学術研究者として生きる人も、同様。政治学中心の研究論文が多くなり、経済学の論考があまり見られない。復興の現実的な計画を国レベル、コミュニティレベルで考えられるのが経済学なのだが。国際機関に勤める経済系の某人は言う。「紛争という現象を追いかけて作成した“学術論文”は、流行語を張り合わせた浅薄な内容だ」と。経済学に基づく紛争予防を、世は求めている。

| | コメント (0) | トラックバック (0)

2008/08/04

ユーモアの世界

ユーモアは私たちに平常心を取り戻させる知恵です。

どんな地にもどんな時にもユーモアがあることは、救いです。

なぜならユーモア一つで自分も周囲も前向きになるからです。

私は人に会う前、こんなユーモアを思い出したり、考えたりしています。

|

2008/08/02

紛争から平和構築へ

Book03_3 紛争から平和構築へ

著:稲田十一  著:吉田鈴香   
著:伊勢崎賢治

出版社:論創社  発行:2003年12月

ISBN4-8460-0377-9

http://www.ronso.co.jp/

03(3264)5254

復興国支援と日本の役割とは? 内戦後の元兵士が二度と銃器を手にしないために、政府、NGOが果たすべき復興支援の今日の課題を提示する。

|

2008/08/01

アマチュアはイラクに入るな

Book02_2 アマチュアはイラクに入るな
プロのNGOが紛争地でやっていること (単行本)


著:吉田鈴香   出版社:亜紀書房 (2004/08)

ISBN4-7505-0411-4

http://www.akishobo.com
03(5280)0261

平和構築活動に携わるNGO(非政府組織)のプロフェッショナルな仕事ぶりを分かりやすく説明する一方で、その援助活動の難しさも紹介した1冊。

イラクで発生した日本人人質事件をめぐり世間が揺れる中、アマチュアボランティアの活動について率直な意見を書いた著書は、発売前から賛否両論を巻き起こした。ボランティア精神だけでは本当の援助はできないのか? NGOはプロの仕事であると当たり前のように認められている欧米のケースを紹介しつつ、紛争地帯での援助活動、平和構築までのステップを詳しく解説する。

|

« 2008年7月 | トップページ | 2008年9月 »